兼務社・境外末社 ほか

宮司を兼ねている神社、新庄八幡宮の境外末社(飛び地にある末社)、新庄八幡宮の氏子地域内に鎮座する小さな神社などです。

※このページに記載の神社には御朱印はありません。ご了承ください。

天神宮(てんじんぐう):兼務社

  • 鎮座地 岡山県倉敷市児島味野2丁目5-3
  • 御祭神 菅原道真公(すがわらのみちざね)
  • 由緒
    創建は応永14年(1407年)といわれる。岩崎(巌崎)五郎左衛門なる者が阿波国三好郡より菅原道真公の神霊を奉戴し舟で尾首坂(字疫神上)というところに着きました。(舟が着いたところをこののち天神川というようになりました)そこに神霊をお祀りしましたが、その後文明4年(1472年)に現在の鎮座地である柘榴浜(ざくろはま・磯辺)に移した、といわれています。

田土浦坐神社(たつちのうらにましますじんじゃ):兼務社

  • 鎮座地 岡山県倉敷市下津井田之浦1丁目15-30
  • 御祭神 綿津見神(わたつみのかみ)
  • 由緒
    延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に田土浦坐神社名神小と記され、当国式内の旧社21社中の1社です。創建年代は不詳ですが、久しく明神(みょうじん)と称していたのを元文4年(1739年)に田土浦坐神社と復称しました。創立時は壮大な社殿を有していたと伝えられます。
    この地方では御祭神は「火が嫌いな神様」とされ、夏祭(例祭)に授与される「火除札(ひよけのおふだ)」は、火災予防の御神徳が特に高く、沢山の方がこの御神札を受けられます。

    ※延喜式神名帳
    律(刑法)・令(主に行政法)・格(律令の補完のために出された法令)の施行細則を集成した法典。50巻。延長5年(927年)完成。施行は康保4年(967年)。このうち巻9・巻10を神名式と言い、当時の由緒ある神社2861社(3132座)の名前が国別に記載してある。これらの神社を「式内社(しきないしゃ)」という。

海神社(かいじんじゃ):新庄八幡宮の「境外末社」

  • 鎮座地 岡山県倉敷市大畠1丁目21-17
  • 御祭神 綿津見神(わたつみのかみ)
  • 由緒
    残念ながら由緒の詳細は不明です。大畠(おばたけ)の氏神様として崇敬されています。

    【海神社の秋祭り】
    新庄八幡宮の境外末社のうちの一社で、小さな漁村ですが立派なだんじりが何基か伝わっています。中には立派な彫り物が施されたものもあります。
    秋祭りは毎年10月最終土曜日・日曜日に行われ、神輿(みこし)と千歳楽(せんだいろく)がぶつかり合います。普段は静かな町内が、この2日間は歓声に包まれます。両日とも夕方から夜にかけて一番の盛り上がりを見せます。

和霊神社(われいじんじゃ)

  • 鎮座地 岡山県倉敷市児島味野2丁目3-1
  • 御祭神 山家清兵衛公頼(やんべせいべいきみより)
  • 由緒
    山家清兵衛の父、清左衛門は仙台藩の家臣でした。清兵衛は幼時から神童の誉れ高く、長じては仁義忠孝に篤く、文武両道に通じた人でした。
    有名な独眼竜、伊達政宗公の嫡男、伊達秀宗公は、伊豫国宇和島藩主として伊豫へ赴く事になりました。父政宗は清兵衛を後見人として随従させる事にしました。当時、宇和島藩は悪政が続き、世相は乱れ、領民も苦難にあえいでいました。秀宗は、清兵衛を家老に据え藩政を委ねます。清兵衛は租税改革を行い、産業を興し、民衆に経済力をつけさせて生活を安定させました。しかし、大坂城の工事等をめぐり藩内に敵対勢力が生まれ、元和6年(1620)刺客に襲われ、蚊帳の中で三人の子供共々42才の生涯を閉じました。彼の死後、対立派の人々が次々と変死したり、天変地異が起きるなど、人々は清兵衛の怨霊の仕業と恐れました。秀宗公は軽率に讒言を信じた自分の不明を自責され、寛永8年(1631)清兵衛の霊を和らげるため神社を創建しました。これが和霊神社です。
    この味野の和霊神社は、清兵衛公の民衆を思う心を慕って瀬戸内各地に勧請されたうちの一社です。